広島つくしの会の歩み

広島つくしの会の歩み

世はサラ金地獄 自殺者まで

 昭和50年代前半、新聞紙上にはサラ金苦による窃盗、強盗、無理心中の記事があふれていました。
このような世相の中、広島弁護士会に登録したばかりの若い弁護士たちは、県・市の法律相談会の担当に駆り出されていました。
そこで彼らが目にしたのは、あまりにもすさまじいサラ金被害でした。
玄関に「金返せ」の張り紙。下校中のこどもに「この子の親は泥棒じゃ」。
自殺を図り病院に運ばれた人に「金を返して死ね」。
果てには弁護士を事務所に監禁。その横暴ぶりはとどまるところを知りませんでした。

若手弁護士とサラ金業者の闘い

 昭和55年2月、県庁の職員S氏の呼びかけで集まった弁護士数十名がサラ金問題の研究会(クレサラ研究会)を発足して、悪質サラ金業者との闘いが始まりました。
弁護士たちは法律の適用だけでは、被害の根絶は遠い、サラ金業者を規制する法律が必要で、被害者が結束して運動しなければと、被害者の人たちと被害者運動を立げました。

被害者団体「つくしの会」が発足

 昭和56年4月。多くのマスコミを集め「つくしの会」が発足しました。昭和58年には運動の一応の成果として、不十分ながらもサラ金規制法の成立を見ました。
様々規制により、被害は一旦沈静化に向かいました。
しかし、サラ金からヤミ金へ、手口も巧妙悪質になり問題の根絶にはいたっていません。運動が始まって数十年が過ぎ、運動の歴史は決して平たんではありませんでしたが、自分の事件が解決したら関係ないと思わずに、将来の被害者がでないように、との思いがこの運動を支えてきました。